1971年版「短歌工房通信」  そして訃報

「冬雷」の古いのを探していたら、大昔の「短歌工房通信」(大山敏男個人誌)が出て来た。1971年に刊行していたものの一部である。残念ながら他は見つからなかった。

当時としては特異な企画の個人誌で、誰もこうしたものを出していなかった気がする。これは岡井隆氏の「木曜通信」(葉書版として出されていた)のイメージ模倣であった。A5サイズ一枚の表裏で構成される極めてコンパクトな誌面である。

当時親交のあった友人諸氏が登場する。

3号では、現在「現代歌人協会」理事長の大島史洋氏。若々しく凛々しいお顔である。氏の処女歌集『藍を走るべし』の書評(大山)と氏の新作五首を掲載する。


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    ◇               大 島 史 洋      

  “根源的問い“を笑えばのめりこんでゆく果ての散華に眼は輝けり

  考える 考えるゆえにあやうけれ ならば一本の木の任につくべし

  門をいでてアパートの翁につかまりぬ糖尿病を尋ねて二度三度笑う

  君はいま俺とどれほどへだたって眠っているか もろし言葉は

  稲妻は藪の骨ほど刺さずして走り過ぎたる悔しくはないか

とある。これは今読んでも力作で、大島氏の誠実さや実力が半端じゃなかったことが直に解る筈だ。氏は多忙中に関わらず小生の希望に沿った作品で応じてくれた。

隣に載っているのは「歩道」の増島洋祐氏。少年時代にお世話になり影響を受けた青年歌人であり、一時だが島一行の名で冬雷に歌を寄せてくれた。「歩道」では主に河原冬蔵氏の指導を受けておられた。河原氏の奥方は、女優の北林谷栄さんであった。


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4号では「歩道」の稲葉正次氏の論と小生の十首の組み合わせ。稲葉氏は長澤一作氏に指導の受けておられた。

小生の十首は後に『感情交響』に収録される対象歌だが、誤植もあって恥ずかしい。二十代初めの拙い作品である。

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5号では、小生の歌集『春』について書いたものである。

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7号は大河原惇行氏(現、短歌21世紀代表)の文と、稲葉氏と小生の五首が組み合わされる。

大河原氏は当時アララギの若手のリーダーで、狭山グループと後に上田三四二から言われる仲間(大橋榮一・斎藤彰詰・萩原千也氏ら)の皆さんとも共に、よく歌を語り合ったものだ。

    冷えながら               稲 葉 正 次

  人恋ほし夜にてゴアの絵の中の焚火の炎われは見てゐる

  常緑樹多きゆふべの公園に硬き頭髪冷えつつ立てり

    清算                  大 山 敏 男

  ことなべて清算したる如き思ひ葉をふるひ落しゐる公孫樹みゆ

  一切の責なげうちてしまひたく思ひはじめゐる吾が恐ろし

こんな感じ。涙が出るほど懸命に生きていた時代であった。

大島氏、大河原氏は述べた通りだが、他の方はいまどうなされたか。精しくは不明である。

探していた冬雷は見つからなかったが、しばらく過去の世界に旅していた。





 《訃報です》

突然電話が鳴った。

悲しい知らせである。

会員の片本はじめさんが9月30日にお亡くなりになった。

ついこのあいだショートmailで、癌が発見されて入院したという連絡を頂いたばかりである。

享年59歳であったという。お若いから癌の進行が速かったのだろう。

それにしても入院のmailから、ひと月も経っていない気がする。肺癌か。速すぎるよなあ。

心よりご冥福をお祈りさせて頂きます。

片本さんの冬雷掲載最後となった作品は九月号、

                   片 本 はじめ 

  無愛想なレジの女にねぎらひの言葉かくれば初めて微笑む

  クリスチャンらしく生きたし聖霊に包まれ賛美の歌聴きながら

  チャペルまで駅から徒歩で五十分腰痛ひどきわれには行けぬ

  一回り大きなズボン二本買ふ腰痛のため財布も痛し

  百貨店の花壇に坐る老人ら皆行き場所のなき人ばかり

  百貨店の花壇にたむろする老人ら長寿と幸は別と思へり

  忌はしき過去のみ脳裏に幾たびも浮かびて眠れず朝となりたり

の一連である。

片本さんは平成2611月入会。ずっと川又幸子さんが指導されて来たが、故人となられた後に小生が選歌を担当した。

作品と一緒に、必ず一枚挨拶文が付いている。それを読んでから選歌に入ったが、敬虔なクリスチャンであった。

 

  クリスチャンらしく生きたし聖霊に包まれ賛美の歌聴きながら 

  チャペルまで駅から徒歩で五十分腰痛ひどきわれには行けぬ

原作では「クリスチャンらしく死にたし」だったが、選者の不理解で「生きる」だろうなあ、と直してしまった。お亡くなりになるとこの原作が痛ましい。

次の歌も、腰痛も病気から来たものだったのだろうか。徒歩50分歩くのは結構辛い。健脚じゃないと無理だろう。でも普段は、この距離を徒歩で通っておられたのだ。これも信仰のから得られた強い精神力がさせたのだろう。

やけに胸にしみる最後の作品となっていた。

                                                        合掌  

  


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by t-ooyama | 2017-10-03 20:34 | Comments(0)

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