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「し」の話

昨日のサッカーをちらっと観ましたが、ブラジルに完敗でした。手も足も出ない、高校野球とプロ野球ほどの差があって遊ばれた印象です。あのレベルの試合になると、チームプレー云々ではない個人技の連携による力が重要なんでしょうね。日本は個人技で圧倒され、看板選手へ球を集めてチームのカラーを誇示するブラジルに押し潰された訳です。サッカーの4点差は大差だし、一人に4点取られるのも稀なことです。

さて日曜日のことですが、比較的若い世代の方の発言が目立ち、そういう声に接したことは良かったですね。特に印象に残ったのは過去回想の助動詞連体形「し」に拘っているものでした。
冬雷では、創刊初期において、この問題に積極的に関わり歌壇に発言してまいりました。当時十代であったわたくしも、言ってみれば子供の時から叩き込まれた問題で身に沁みついております。短歌作品に、この「し」が文法にのっとって使われていないことが多く、目に余るのでしっかり検証しようという態度だったのかと思いますが、「高嶺」と「冬雷」が主になっての問題提起でした。先頭に立っていた国語学者故太田行蔵先生が標的にしたのはアララギで、その代表として論を張ったのが故宮地氏でした。

問題提起は歌壇にインパクトを与えました。こんな問題があったのか、知らなかったが、この際見直したい、と思った方も少なくなかったことでしょう。
議論は論戦も含めて際限ない雰囲気で継続しました。しかし幾ら議論しても或る境界にまで行けば先に進めません。間違いだ、いいんだ、の判定など当時も今も難しい訳です。
結局、常識を超えた大力作家が、文法という枠を超越して、芸術的感動のおもむくままに最初の事例を残したのでしょう。それを多くの凡な一般作家が手軽に模倣した。その連続で歌壇に蔓延した、という構図かもしれません。そこに気がついたので、ちょっと待った、という問題提起かと思います。
だから、ある程度その問題が広まれば目的は一応達成されたことになります。あとは現役歌人たちの常識にゆだね、正しい方向へ向かうことに賭けるしかない、でよい訳です。だから、その後も延々と続く冬雷での議論には、いささか(申し訳ないけれども)うんざり気味でした。当時木島先生にも、もうそろそろいいんじゃないですかって申し上げた記憶もあります。

日曜日の若い層の発言に刺激され、古いことを思い出しました。
「し」の問題には、わたくし個人的には結論を導き出し、二十年ほど前に(たぶん)冬雷誌上に連載しました。間違いは確定的なので、それを慣用だなんて処理せず、正していこうという態度です。でも、最もいけないのは作者の体験ではない周辺の状況、例えば「きれいに澄み透る水」などを「澄みし」とすること。口語でいう絵に描いた餅などの「た」を「し」に置き換え「描きし」ということ。目の前に咲き始めている花を「咲き初めし」ということ。等です。
「し」の上に「かつて」を付けてぴったりする状況が正しい「し」の用法だと思います。なにしろ「過去回想の助動詞」というものですからね。
でも、かなり妥協して自身の体験についてはかなり近い過去でも「し」は許そう、とか、死者になっている方の比較的近い過去の状況を歌うには認めようとか、まあそういう妥協です。
自作については厳格に守っています。
そして、わたくしが選歌を担当する方の場合も、一応はその点を指摘し、再考を促しています。
要するに、間違いである事実を知ったうえで、あなたはどう使いますって問題です。
どうでもいいっていう態度にだけはなりたくありません。

サッカー日本代表は個人技でブラジルのそれに大差を付けられました。サッカーと短歌は同じじゃないけれども、冬雷も個人技で優れた才能がどんどん育てば、結果的にチーム冬雷としての力も上昇するのでしょう。画一ではない個を大切にしたいものと考えます。

まずはこの辺で、お終い。

by t-ooyama | 2014-10-15 12:11 | Comments(0)

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