歌集/歌書御礼
昨日は曇り空の肌寒さ、今日は晴天のヒンヤリ天気。すっかり秋だ。
風がかなり強そうで窓に見える木立が揺れ騒いでいる。
印刷所からの連絡で十月号の進捗は予定通り。日曜日には発送が出来るだろう。
わたしはこれから外出で帰宅は明日の深夜。予定だから少しは変るかもしれない。
纏まった手書き原稿をテキスト打ちに出して、束の間のほっとする時間を過ごす。
来月号に掲載する「交流他誌管見」に少し手を付ける。今度は桜井美保子歌集『駅』の反響である。約二十ほどの他誌を積み上げてある。
その前に、すこし溜まった寄贈を受けた歌集歌書の御礼を書き上げる。昨日3冊、今日は5冊。
かなり疲れた。こういうのも発行所の仕事だから義務でやらねばならない。七時から始めて十時半に終了。
あとはこれを投函すればよい。
お陰さまで小生は歌壇では人気のない作家なので、あまり寄贈書が来ない。何とか全てに目を通し、返事を書ける。
今日の歌集の中に『文語定型』(上條雅通著)というのがあって、最初は歌論かなと思った。歌集と知って「そのものずばり」だなと感心する。作品も題名そのものの格調高いものだった。
「文語定型」の対極は「口語不定型・口語自由律」なのかもしれない。あるいは「新短歌」と銘じているむきもある。
大昔の生意気歌作りの小生は、「新」が付くんだから「短歌」じゃないと考えていた。今でもおおむねは自由律短歌を敬遠ぎみである(すみません)。
だが、ふと考えると、何故か小生宛の「自由律短歌」からのアプローチが多い。もしかしたら、小生の作品に口語の多用があるので、大山は自由律作家だと思われているのかもしれない。これは違うな。
小生は基本に文語定型を置いている。あくまで短歌は文語基調でなければならない、と信じている。
口語が入るのは、時代の流れ。口語と反響し合う「新しい文語」を目指している。
口語と文語の共存は意図的であり、区別がつかなくて混じっている訳じゃない。
だから後輩の歌の指導等では、この口語と文語の入り混じり短歌には、常に警告を入れている。
きちんと作りなさい、と。
指導を受けているような期間の方は、やはり確実にきちんとした歌を文語なら文語で、口語なら口語で作る方が良い。
小誌の場合だが、作品欄の昇格にでもなって、例えば「二欄」へ行ったら、今度は実験をして欲しい。
三欄は「基礎を作る場」
二欄は「実験の場」
と、昔はよく言い合った。
各作品欄でのメリハリある作歌活動があると良いと願っている。
by t-ooyama | 2017-09-21 11:40 | Comments(0)