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ペーパーレス短歌雑誌の実験4

標記の回目。

昨日届いた「うた新聞」7月号を見ていたら、小塩卓哉氏が「ペーパーレス化の中で」という記事を書いている。推進派なのかなと思って読んでみたら逆であった。氏は六十歳以下に限れば過半数がパソコン派であろうとして、

歌集をまとめる時もデータで出版社へ送る時代、発表した自作も全てが手元のパソコンに残っている。総合誌にも電子版があり、ペーパーレスと紙が共存している。でも、これだけペーパーレス化が進んでも縦書きの短歌文化は守られて、横書きで草稿を作り送信しても、発表時は縦書きである。それは、歌人には便利さと短歌の伝統とを両立させようとする意識があるからではないか。歌人のもつこのようなバランス感覚をぜひとも可視化する必要がある。さもないと、一気に横書きや、ペーパーレス化の時代が到来すると案じている。

というような論である。

短歌雑誌(ここでは便宜上限定して言うが)のペーパーレス化が予想されるのは、雑誌を作り、それを会員の皆様や、歌壇の交流他誌等の元へ配達し、互いに連絡しあって運営するという状態が、取り巻く環境、事情の変化によって維持不可能になることが危惧されているからだと思う。

やりたくても、作ってくれる会社等が見つからない、制作費が驚くほどの高額だ、加えて紙の雑誌を送り届けてくれる費用も贅沢物扱い的に高騰する、そういうことも予想され、じゃ、出来ないよね。仕方ない、となる。

パソコン上横書きに流れる問題は、縦書きに直すプロセスを踏めば踏み越えられることなので、さほど問題ではなく、一気に短歌が横書き化に傾くことも心配ないかと思う。そもそもペーパーレス化と縦書き横書きの配置のことは直結することでもない。

小塩氏の仰有る通り六十歳以下なら半数はデジタルデータを自前で作りそれぞれが保管している時代である。そのデータの有効活用を進めなければ宝の持ち腐れなのだ。

紙の雑誌を作り、それを遣り取りして読み合うことは、伝統文化であり歌人の美意識の為すところに違いないけれども、そのように作り、運営しなければならない、そうするしかない背景の事情があって、積み重ねてきた伝統だとも言えよう。与えられた環境の中で精いっぱい頑張り努力し、揺るぎないベストの方法を構築する。そういう文化の一つなのかとも考えられる。

そうした伝統力を尊びつつ、しかし時代の条件の容赦無き変化にも、いち早く順応して行かなければ「行倒れ」が待っているかも知れない。少し言葉はきついが、かほどデジタルデータが氾濫し、アナログ文化の衰退が激しい現状、いわゆる「転ばぬ先の杖」でのペーパーレス化の実験である。

小誌は「差し迫ったものはないが」として標記のことへ舵を切った。

まさに試行錯誤である。

紙出しのアナログ短歌雑誌を作るにしても、先ずは全ての原稿をデジタル化せねばならない。文字あり写真あり画像などいろいろなデータが揃う。

そしてそのデータを誌面レイアウトに沿って配置して行く。これをDTPという。

そうして作ったパソコンデスクトップ上の「誌面」をPDFに変換する。

このPDFデータを印刷用に作れば紙だし雑誌のアナログだが、ペーパーレス用に作れば画像で読み合うデジタル版となる。ここで別れるだけで、実際には紙だしもペーパーレスも、制作工程は同じである。

つまり、ここまでの制作費用はどちらも同様に掛かってくるのだ。

小誌は、このプロセスを踏んでPDFの画像データを配信することでペーパーレス化を進めようと考えて来た。

その前提で、じゃ誌面画像を、単ページで出すか、見開きページで出すかを試行した。

現時点では、見開き誌面画像をちょっと加工して作り、見た目の雑誌感を出すことを試している。作る側から言えば、結構うまく出来たなと自慢だったが、ここに来て、俄かにはたと気がつくことがあった。

見開きページ画像で作ったものは、そのままダウンロードして全体を見てもらわねば意味がないのに、中には小型の媒体を使って見る方がいたということである。そうなると、わざわざ無理をして雑誌の誌面ママ画像を作ったのに、その部分部分を虫眼鏡で拡大するようにスクロールさせて読まれては、もう見るに耐えないボロも出てしまうのである。

思わず天を仰いだ。これはダメだと思った。全ての方の条件に沿うものなど作るのは無理なのである。

紙だし雑誌の誌面ママ画像を、部分部分拡大で読む方も居るわけだ。それって、雑誌を読むということと少し違う気がする。雑誌性を弱めて文字性を求めているのだ。

そこで、ではペーパーレス雑誌って何なのかと改めて問うてみた。

これは、紙に出して作って運営するのに困難が生じたから他の方法に転じようとするのであって、そこに紙時代の「誌面」の伝統など、どれほど価値があるのだろうか、という問いである。概ね多くの短歌雑誌に、独特誌面を誇る飛び抜けた個性派があるとは思えない。皆似たような形態で明治大正以後変わりなく、作っている。そんな誌面レイアウトに拘る価値が本当にあるのだろうか。

いっそ誌面レイアウトを無視し、中身だけを全く同じ条件のフォントサイズデータで並べるだけで良いのではないか、と思えてきたのである。

こんなデータなら、小塩氏の仰有る多くの方が手元のパソコンに保管しているものと同様に、一般的なWord文書で十分かも知れない。これなら誰にでも作れるデータである。

これを会員同士がメール添付してやり取りするなら、先ほど述べた印刷用データ制作までの経費すら不要となるのである。これは安くてしかも誰にでも確実に伝わる方法だと思われる。

例えば「冬雷2020年〇〇月号 総資料」とか名付けて、会員の皆様へメール添付して共有する。そして今までと同じ様に、原稿締め切りを設けて毎月この「冬雷2020年〇〇月号 総資料」を編集部が作成するのである。これなら今までと同じ様に毎月弛まず緊張感を持って短歌に打ち込める様な気もして来る。

これは「いいな」と思う。

そして、この次が大切なのだ。

そういう月々の勉強を重ねてきた全会員の一年間の全作品を網羅する『冬雷202 作品年鑑・自選合同歌集』という様なものを毎年制作し、しっかりと整理し記録して、そして形ある物として残して行くことが必須となる。一年に一回、そういう立派な紙だし本が手元に残るなら、通常は軽量データの遣り取りで学ぶ方法にも意味があるし、我慢も出来得ると思うのである。

これって「いいな」じゃないだろうか。

最後には、小誌が今実践している小結社の「作品年鑑」刊行の意義が、将来へ向けての重要な先駆け見本だという宣伝めいたが、月々のデジタルデータを各結社が保有することになれば、こうしたことも比較的簡単に出来ることかと考える。

長々お付き合い、有難う御座いました。


by t-ooyama | 2020-07-07 08:37 | Comments(0)

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