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九キロ歩く

川越のはずれのこの地に住んで二十年以上が過ぎた。旧川越街道沿いで、近くには「藤間中宿跡」という白藤の棚を構える家もある。川越城下まで残すはほぼ一里のところで、旅人はちょっと一休みのお茶でも飲んだのであろうか。そこから100メートルも歩けば、日本舞踊五大流派の一つとされる「藤間流」発祥の地がある。国道254を渡った側なのでそこは今では熊野町となるが、かつては藤間に含まれていたのだろうと思う。

今日、少し涼しいので歩いて自分の眼で確認してきた。やはり夏なので草が生い茂り、発祥の地を示す石碑を覆うばかりであった。初代藤間勘兵衛が(1704年〜1711年)がここに起こし、のちに江戸に出て開花させた藤間流。藤間流は「茅場町」と「浜町」の二つに分かれたと言う。現在の藤間流の隆盛を思うと、この発祥の地の寂しさには少し驚く。

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実は昨日、この街道を歩いて4キロほどの「烏頭坂」まで往復した。回り道などもしてほぼ3時間の歩行だった。この街道は古くは「川越往還」とか「川越道中」といわれ、街道と呼ぶのは明治以後だそうである。中山道の「板橋宿」から分かれて川越へ向かう30キロ程の道のり。平尾追分から、上板橋、下板橋、白子、膝折、大和田、大井、そして川越へ至る。

大井から川越城下へ行くには必ず越えねばならない難所が「烏頭坂」だったと言う。古地図には「うたふ」と書かれているものがある。この「烏頭坂」は古くから知られたところであった。1448年の書という「廻国雑記」にはすでにこの地名が詠み込まれ、

  うとう坂こえて苦しき行末をやすかたとなく鳥の音もかな   (道興准后)

とある。「うとう」の名は他の地にもよく見られ「洞状」の「切り通し」のような場所を言うようで、この「廻国雑記」が言う「うとう坂」は、当時すでに広く知られていた謡曲の「善知鳥」の知識が、「ウトウ」という名に閃いて作られたもので、この地名の由来ではなさそうである。

  うとう坂を苦しみながらやっと超えてきて、この先も、安らぐ場などないのだけれど、あの「善知鳥」の話のように、せめて鳥の音でも良いから「やすかた」と鳴いてほしいものだ」というような意味なのだろうか。「やすかたとなく」には、この時代の作歌の基礎でもある序詞枕詞、掛言葉のテクニックの「やすかたと鳴く」の意味が掛けられていて、結句の「鳥の音もかな」に繋がるのである。上の句と下の句の接点が「やすかた」で、微妙なバランスで歌の意味を構成する。

という歌の元になった実物の坂を見ようと考えたのであった。藤間中から歩いてほぼ4キロ。今の坂道は、さほどの急峻ではなく、広くはないが舗装された生活道路なので、きついとか苦しいとかの感想もなく登り切ってしまった。「うとう」という名の元の洞状でも切り通しでもない普通の坂道という感じであった。ある人の話だと、かつては切り通し状だったのだが、右横手に国道254が整備される時に切り崩されて見晴らしが良くなったのだそうだ。そうかもしれないがそういう文献も見つからなかった。

「烏頭坂」の上には「熊野神社」があって、今も鬱蒼とした杜になっている。その眺望台から眺めると、確かに結構高いことは分かる。「烏頭坂」交差点は国道25416号が交差し、その下をJR川越線と東上線の線路が二つ、「烏頭坂」をトンネルで抜けて市街へ伸びているのである。やはり往時はかなりの難所であったことはうなずけた。

この「烏頭坂」あたりも、日光街道のような杉並木になっていたのだと言う。何か昼なお暗い鬱蒼たる坂道が思われて重々しかった。

いずれ雑誌に出すのだけれど、メモ程度なままの二首です。

杉並木おほふ小暗きさまおもひのぼる烏頭坂ひと足ひと足

幾そたび自動車に越えし烏頭坂けふは歩みぬ家より一里


by t-ooyama | 2020-09-28 17:24 | Comments(0)

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