新河岸川舟運と福岡河岸の話
江戸幕府と関係の深かった川越藩は、川越往還の整備と同時に領地を流れる新河岸川を使った舟運で江戸と親密に繋がる政策をとっていた。水量の少ない川だったので、そこに屈曲を人工的に作り、舟運に適する水量確保に努めた。船の種類は、並船、早船、急船、飛切船等があったというから、さしずめ今の特急、急行、準急、各駅停車の様な分類であろう。浅草の花川戸が終点で、往復八日から十五日程度要したらしい。正保元年(一六四四年)に始まり、昭和三年まで行われていた。
(追記)往復にしてもこの所要時間はかかりすぎではないか、と思っていたが、例えば早船の場合、午後三時に出立の便だと、翌日の十二時ごろに浅草花川戸に着いたようである。これなら現実的な時間だが、例えば川越往還から中山道を使って江戸に陸路行っても二日がかりだったろうから特別早いという印象はない。大きな荷物などを運搬するに主の目的があったのかと思われる。
川越五河岸と云われる、上下新河岸、扇、寺尾、牛子の他にも、新倉、根岸、宮戸、宗岡、百目木、福岡などの河岸も開かれ繁盛した。
明治の後期には、人工的に作られた屈曲の流れが生み出す度重なる洪水の対策として、またも川の流れを元に変える改修工事が行われ、だんだん舟運に適さない様になっていった。
そういう河岸の一つである福岡河岸の跡を見てみたいものと家から歩いた。往復二時間ほどの距離だが、ゆっくり歩いたのでほぼ二時間半掛かった。
福岡河岸は明治四十三年の大洪水によって水没し大被害を受け、これを機に船問屋は廃業することになる。この地には当時の船問屋福田屋の屋敷跡を史跡として残し福岡河岸記念館となっている。
その見事な明治の面影濃い景観をご覧頂きたい。
そして付近から見た今の新河岸川の様子である。


埼玉県上福岡は、今ではふじみ野市の中に含まれているが、合併以前は「上福岡市」として市政をしいていた。この「上福岡」の地名はこの地の古くからあるもので、九州の福岡とは何の関係もない。江戸時代から福岡村であった。この近くには「福原」「今福」など「福」を持つ地名は多い。
by t-ooyama | 2020-10-05 00:40 | Comments(0)
