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絡み合ひ・縺れ合ひ・繁りあふ

いま「ネット歌会」で動いている最中の、小林芳枝さんの一連の、そのうちの二首。

その批評書き込みで僕は、言わなくても良い事まで言ってしまい、半分失敗したと思っている。せっかく「祝『醜の夏草』」と題する八首を作って贈って下さったのに、事もあろうに「追悼歌みたいだ」と書いたのだ。

前に電話した時は「この表紙絵の中に鳥の貌が隠れているよね」って仰っていたので、「へえ、そうですか。目の錯覚ですね。僕には見えない」と答えたのを思い出した。

『醜の夏草』机上に立てて眺めをり鳥かと紛ふ影に惹かれて

その時の歌がこれだとすぐに分かった。あの表紙絵を観て、草叢の絵の中の「鳥」の影を歌っているのだ、ということになる。仮にそこに「鳥」が見えたとしても、それは意図的に潜ませた「鳥」の貌でもない訳で、いわばどうでも良いことに思えた。

でも、そういう裏話が無いとしてこの歌を読めば、ある意味、お祝いの歌とも見える気がする。作者は歌集を机に立てて眺めているのであり「絵」だとは言っていない。だから、机に立ててある歌集『醜の夏草』の姿から、飛翔しようとする「幻の鳥」を観た、という作品に仕立てられたのかもしれない。つまり僕の中の飛翔体を看破してくれたのだ・・・となる。「この本の(絵の中に)力強い飛翔体となって、飛び立とうとしている著者が居る」という歌だとしたら、これは有難く鋭い作品で、感謝せねばならないと思う。

絡み合ひ縺れ合ひ躍動する草の描かれて淡きブルーの表紙

これは間違いなく表紙絵を観察して作った歌である。

 実は僕が「追悼歌みたい」と感じたのには伏線があった。この歌の中にある「絡み合ひ縺れ合ひ」のフレーズは、僕が『呑・舞』という歌集の中の「穂積靖夫を憶ふ」一連の最後を、

  家おほひきキウイの蔓の絡みあひ繁りあふあんなふうだつた我らも

と歌ったのを思い出していたからである。一連は、

  稀に照るこの日曜日ただ暑く白山より歩く五六分ほど

  半井桃水の墓かへりみず進み来て君の御墓を囲むわれらは

  十年余忽ちにして今日集ふ君の御墓に日の光満つ

  思ひ出で語るは共に拙くて傷つき傷つけあひし若き日

そして「家おほひ・・・」の歌となる。

十三回忌か何かで墓地に詣でた折の作品で、故人との関係や思い出話である。楽しいことばかりでなく、結構ぶつかり合ったこともあり、回想も複雑であった。

墓地から見えた家のキウイの棚は、見るも無残なほったらかし状態で、その蔓が思いのままに伸び、絡み合って繁っていた。それを見て、ああ、あんな風に過ごしたこともあったよねという思いの歌である。


この「絡みあひ繁りあふ」が、小林さんの「絡み合ひ縺れ合ひ」から連想され、ああ挽歌の様だ、という印象を強めた気がするのである。「絡み合ひ縺れ合ひ」って、やはりかなり粘着力の強いどこか捻じ曲がった人物でないと出てこない様な詞句ではあるまいか。納豆の粘りを「男らしい」と感じる僕などが「絡みあひ繁りあふ」と発想するのは自然だが、これは小林さんの言葉とは思えない。小林さんも、ひょっとしたらこの一連の作品を頭に浮かべつつ、作ったのではないかとも考え、流れで「追悼歌みたいだ」となったのだと思う。


でも、歌って面白いのは、この歌「家おほひ・・・」を単独で読んだ人から、あれって夫婦間のことを歌った相聞歌ですよね、って言われたことである。「イマハ少しコジレテ居るけど、アンナフウニ仲良くカラミ、繁りアッタ日もアッタヨネ」というような意味になるのかなあ。そう言われてみると、それが本当の意味だったのかもしれない、なんて思っちゃいそうだから、不思議である。


by t-ooyama | 2020-11-16 12:14 | Comments(0)

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