堀兼の井戸
雑誌「NHK短歌」の十二月号の「令和に伝えたい歌枕」を担当した。住所地の周辺から、それにふさわしい場所と歌枕を探してリレー形式で引き継ぐという内容である。
ずいぶん迷い、あれこれ考えたが、歌枕としてならここしかないという場所があった。狭山市にある堀兼神社の「堀兼の井戸」である。住まいから車で二十分くらいの距離で、市内ではないが、身近な所である。江戸時代に遡れば、狭山も旧川越藩の領地でもあった。
わたしの住む川越は、比較的新しい街で、江戸幕府との関連性から急激に発展した気がする。太田道灌が川越城を作り、また江戸城も作って、その連絡路としてできたのが現在の川越街道ではあるが、そのくらいの昔までくらいしか遡れず、また、歌枕というようなものが殆どない。万葉集を見ても、ここがその歌の発祥地だというような説を持つ所は二、三あるのだが、確定的な強いものではないので、使いにくいような気がした。
その点、この「堀兼の井戸」は全国区的な知名度を持っていて、古くは「枕草子」にも、≪井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるが、をかしきなり≫と一番に記されている程である。さらに「伊勢集」にも、
いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢集)
と歌われているのだ。これはまさに歌枕。令和に伝えるべき所であろうと思った。この地を歌った有名歌人も多く。
武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり(千載和歌集 藤原俊成)
あさからず思へばこそはほのめかせ堀金の井のつつましき身を(俊頼集 源俊頼)
くみて知る人もありなん自ずから堀兼の井の底のこころを(山家集 西行法師)
いまやわれ浅き心をわすれみずいつ堀兼の井筒なるらん(拾玉集 慈円)
など数多い。
なぜ「堀兼の井戸」が有名だったのかというと、この武蔵野の地は広い地域で「水の便」が悪かった。川などのない場所には井戸を掘って水を確保するしかないのだが、この地で井戸を掘るのは大事業であり困難を極めた。つまり「掘り兼ねる井戸」という意味で名が知れていたようであった。
その辺りのことを雑誌に書かせて頂いた。
興味のある方は雑誌を手に取ってご覧くだされば有難い。
取材の為に現地を訪ね、写真も撮ってきたので、アップする。
狭山市の「堀兼神社」と現存する「堀兼の井戸」である。


続く「危険な暑さ」の中を堀兼に来てさしのぞく井の底のそこ
by t-ooyama | 2020-11-19 23:38 | Comments(0)