八潮市垳
八潮は昔、会員の安藤さんがいらした地で、お亡くなりになったときは、たしか近くの谷塚斎場で冬雷の友人たちとお見送りしたことを思い出します。安藤さんはお亡くなりになった後に、奥様の強い御意志で、遺歌集として、冬雷綴込み歌集『続茫々』を編みました。よい男であり、すばらしい才能の炸裂する歌集となりました。懐かしいなあ。
なんて思いつつ、駅前の広いロータリーあたりを過ぎると、突然同行の森藤さんが転倒し、あっと声がおきました。転倒して骨折というケースは最近も友人にあったので、ひやっとしました。森藤さんは小林さんに労られながら、自力で悠悠と立ち上がりまして安心しました。
高田さんを先頭に小林さん、森藤さん、そして私の四人です。
そこには大きな道路が貫かれる予定地なのでしょう、すぐに行き止まりになっているので車は来ませんが片側2車線の見込まれる未完の道路へ100メートルほど入った所に、川又さんがいらっしゃる建物があります。住所は八潮市垳(がけ)、というところ。大昔は、このあたりが海岸線であり、きっと、その地名に因むような立地をしていたのかもしれません。裏付けるように、
早稲田大学社会科学総合学術院教授、笹原 宏之氏の話ですと、
がけ」という語に「崖」という漢字が当てられたのは、江戸時代も半ばになってからのことで、「がけ」と訓読みする字としては、元禄時代以前から現れる「垳」の方が早いのであった。ある新聞社の方とそこを訪れてみたところ、確かに「がけ」のような斜面を川岸にもつ大きな中川のほか「垳川」が流れていた。現在では立派な「垳川排水機場」も設けられている。「垳」は八潮市内の大字(あざ)で、その地の常然寺には「垳の万人塔」も建立されている。
とあります。この「垳」という字は、この地名以外には稀に「姓」に使われるだけのとても珍しい字で、漢字ではなくて日本で作られた「国字」だそうです。
川又さんのお陰で、ひとつ物知りになりました。
建物は三階建てです。その二階にいらした。まだ建って間のない新しさです。
受付で手続きをして、室に向かいます。エレベータを出て右へ行き、その突き当たりの右側の室です。
川又さんはベッドのなかで、冬雷を枕元に置いて眠っておられました。
広めのワンルームにはベッドと箪笥を据え、大型の鏡のついた洗面所や、広めのトイレットが設備されています。高田さんが気をきかせて持ち込んだ歌集『低き山々』をテーマに描いた故加納久画伯の油絵が飾られています。この画は「冬雷」の表紙画として描かれ、後に文庫版歌集『歳月』の表紙カバー画にも使った素敵な画なのです。
あらまあ、よく来てくれたわねえ。
と、元気そうな笑顔を作ります。
あなたのそのバッグ新しくしたのね。まあ、いいベストを着てるわねえ。
という感じで、相変わらずファッションにはめざといですね。
まあ、体調が良くて順調だということだ。安心しました。
室内を歩いた時に転倒したと言って、おでこのタンコブも見せてくれました。
森藤さんも、川又さんも転倒して、
大きなことにならずに、よかったなあ、とつくづく思います。
長居はよくないから、早めにきりあげて別れを告げました。
今日は29日。
今年も残すところ二日です。
側に誰かが居て、激励すれば、短歌は月に十首くらい作りそうです。
でも、選歌、添削となると、現状では無理だなという感じでした。
まだ、明るいうちだったけれど、今までの高田さんや皆さんのご尽力に感謝しつつ、四人で、
駅前のレストランで、イッパイ飲ませてもらいました。
皆さん、本当にお世話になりました。
▲ by t-ooyama | 2015-12-29 22:11 | Comments(0)