スマホの写真1葉・短歌2首
筆供養 小林 芳枝
相沢春洋の忌日に合はす筆供養今年は桜の紅葉かがやく
筆塚の前に焼かれてゆく筆の爆ぜて読経のこゑ中断す
# by t-ooyama | 2020-12-10 12:02 | Comments(5)
筆供養 小林 芳枝
相沢春洋の忌日に合はす筆供養今年は桜の紅葉かがやく
筆塚の前に焼かれてゆく筆の爆ぜて読経のこゑ中断す
# by t-ooyama | 2020-12-10 12:02 | Comments(5)
# by t-ooyama | 2020-12-05 11:44 | Comments(0)
雑誌「NHK短歌」の十二月号の「令和に伝えたい歌枕」を担当した。住所地の周辺から、それにふさわしい場所と歌枕を探してリレー形式で引き継ぐという内容である。
ずいぶん迷い、あれこれ考えたが、歌枕としてならここしかないという場所があった。狭山市にある堀兼神社の「堀兼の井戸」である。住まいから車で二十分くらいの距離で、市内ではないが、身近な所である。江戸時代に遡れば、狭山も旧川越藩の領地でもあった。
わたしの住む川越は、比較的新しい街で、江戸幕府との関連性から急激に発展した気がする。太田道灌が川越城を作り、また江戸城も作って、その連絡路としてできたのが現在の川越街道ではあるが、そのくらいの昔までくらいしか遡れず、また、歌枕というようなものが殆どない。万葉集を見ても、ここがその歌の発祥地だというような説を持つ所は二、三あるのだが、確定的な強いものではないので、使いにくいような気がした。
その点、この「堀兼の井戸」は全国区的な知名度を持っていて、古くは「枕草子」にも、≪井はほりかねの井、玉ノ井、走り井は逢坂なるが、をかしきなり≫と一番に記されている程である。さらに「伊勢集」にも、
いかでかと思ふ心は堀かねの井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢集)
と歌われているのだ。これはまさに歌枕。令和に伝えるべき所であろうと思った。この地を歌った有名歌人も多く。
武蔵野の堀兼の井もあるものをうれしく水の近づきにけり(千載和歌集 藤原俊成)
あさからず思へばこそはほのめかせ堀金の井のつつましき身を(俊頼集 源俊頼)
くみて知る人もありなん自ずから堀兼の井の底のこころを(山家集 西行法師)
いまやわれ浅き心をわすれみずいつ堀兼の井筒なるらん(拾玉集 慈円)
など数多い。
なぜ「堀兼の井戸」が有名だったのかというと、この武蔵野の地は広い地域で「水の便」が悪かった。川などのない場所には井戸を掘って水を確保するしかないのだが、この地で井戸を掘るのは大事業であり困難を極めた。つまり「掘り兼ねる井戸」という意味で名が知れていたようであった。
その辺りのことを雑誌に書かせて頂いた。
興味のある方は雑誌を手に取ってご覧くだされば有難い。
取材の為に現地を訪ね、写真も撮ってきたので、アップする。
狭山市の「堀兼神社」と現存する「堀兼の井戸」である。
続く「危険な暑さ」の中を堀兼に来てさしのぞく井の底のそこ
# by t-ooyama | 2020-11-19 23:38 | Comments(0)
いま「ネット歌会」で動いている最中の、小林芳枝さんの一連の、そのうちの二首。
その批評書き込みで僕は、言わなくても良い事まで言ってしまい、半分失敗したと思っている。せっかく「祝『醜の夏草』」と題する八首を作って贈って下さったのに、事もあろうに「追悼歌みたいだ」と書いたのだ。
前に電話した時は「この表紙絵の中に鳥の貌が隠れているよね」って仰っていたので、「へえ、そうですか。目の錯覚ですね。僕には見えない」と答えたのを思い出した。
『醜の夏草』机上に立てて眺めをり鳥かと紛ふ影に惹かれて
その時の歌がこれだとすぐに分かった。あの表紙絵を観て、草叢の絵の中の「鳥」の影を歌っているのだ、ということになる。仮にそこに「鳥」が見えたとしても、それは意図的に潜ませた「鳥」の貌でもない訳で、いわばどうでも良いことに思えた。
でも、そういう裏話が無いとしてこの歌を読めば、ある意味、お祝いの歌とも見える気がする。作者は歌集を机に立てて眺めているのであり「絵」だとは言っていない。だから、机に立ててある歌集『醜の夏草』の姿から、飛翔しようとする「幻の鳥」を観た、という作品に仕立てられたのかもしれない。つまり僕の中の飛翔体を看破してくれたのだ・・・となる。「この本の(絵の中に)力強い飛翔体となって、飛び立とうとしている著者が居る」という歌だとしたら、これは有難く鋭い作品で、感謝せねばならないと思う。
絡み合ひ縺れ合ひ躍動する草の描かれて淡きブルーの表紙
これは間違いなく表紙絵を観察して作った歌である。
実は僕が「追悼歌みたい」と感じたのには伏線があった。この歌の中にある「絡み合ひ縺れ合ひ」のフレーズは、僕が『呑・舞』という歌集の中の「穂積靖夫を憶ふ」一連の最後を、
家おほひきキウイの蔓の絡みあひ繁りあふあんなふうだつた我らも
と歌ったのを思い出していたからである。一連は、
稀に照るこの日曜日ただ暑く白山より歩く五六分ほど
半井桃水の墓かへりみず進み来て君の御墓を囲むわれらは
十年余忽ちにして今日集ふ君の御墓に日の光満つ
思ひ出で語るは共に拙くて傷つき傷つけあひし若き日
そして「家おほひ・・・」の歌となる。
十三回忌か何かで墓地に詣でた折の作品で、故人との関係や思い出話である。楽しいことばかりでなく、結構ぶつかり合ったこともあり、回想も複雑であった。
墓地から見えた家のキウイの棚は、見るも無残なほったらかし状態で、その蔓が思いのままに伸び、絡み合って繁っていた。それを見て、ああ、あんな風に過ごしたこともあったよねという思いの歌である。
この「絡みあひ繁りあふ」が、小林さんの「絡み合ひ縺れ合ひ」から連想され、ああ挽歌の様だ、という印象を強めた気がするのである。「絡み合ひ縺れ合ひ」って、やはりかなり粘着力の強いどこか捻じ曲がった人物でないと出てこない様な詞句ではあるまいか。納豆の粘りを「男らしい」と感じる僕などが「絡みあひ繁りあふ」と発想するのは自然だが、これは小林さんの言葉とは思えない。小林さんも、ひょっとしたらこの一連の作品を頭に浮かべつつ、作ったのではないかとも考え、流れで「追悼歌みたいだ」となったのだと思う。
でも、歌って面白いのは、この歌「家おほひ・・・」を単独で読んだ人から、あれって夫婦間のことを歌った相聞歌ですよね、って言われたことである。「イマハ少しコジレテ居るけど、アンナフウニ仲良くカラミ、繁りアッタ日もアッタヨネ」というような意味になるのかなあ。そう言われてみると、それが本当の意味だったのかもしれない、なんて思っちゃいそうだから、不思議である。
# by t-ooyama | 2020-11-16 12:14 | Comments(0)
# by t-ooyama | 2020-11-12 10:32 | Comments(0)
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